ONLINE MAGAZINE/REDS VOICE
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2002.10. 4 Vol.47
「ギド・フェスタ2002」開催!

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2002年9月29日に駒場スタジアムで行われたギド・フェスタ2002の様子をお伝え致します。
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ギド・フェスタ2002/写真01
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ギド・フェスタ2002/写真02
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ギド・フェスタ2002/写真03
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ギド・フェスタ2002/写真04
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ギド・フェスタ2002/写真05
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ギド・フェスタ2002/写真06
司会: それでは改めて、ご紹介をさせていただきたいと思います。
ギド・ブッフバルトさんです。
おかえりなさいと言いたいですよね。みなさん。
第一声みなさんで声を合わせて「せーの」でギドおかえりなさいコールでお願いします。
せーの…
司会&観客: ギドおかえりなさい。
ギド・ブッフバルト
(以下ギド):
どうも。
司会: 本当うれしいですよね。
今日は親しみを込めて、みなさんと共にギドとお呼びしたいと思います。
ギドがここにいてくれるだけで、涙うるうるするって正直言ってあるんですけれども。本当そうですよ。
ギドがこの駒場にいると言うことで、いろんな思い出が浮かんでくると思うんですよ。
今日はここだけでしか話せない事などを聞いていきたいと思います。
まず、最初に、ギド、駒場、イコール、白馬。
通訳の山内さんです。
どうだったんです?あの白馬に乗りたいとギドが希望したのですか?
ギド: 白馬に乗った演出は、あれは、はっきりと私の希望ではありません。
今までに、私は馬に乗ったことがないのです。 最初は馬車に乗るのかと思っていたのですが、馬に乗ると言われてはっきり言って恐かったです。
その後、最後のお別れ会の時の話をしておりまして、白馬はどういう意味があったのかということはわかりませんが、嬉しかったです。
司会: ギドのお別れセレモニー、97年ですよね。
涙うるうるしながら、ギドの言葉を聞いてその後、白馬に乗る。
感傷に浸っていたのが、どこかへ行っちゃって笑いになってしまったと言う…
でも、最後は足、怪我してらしたんですよね?ギドは。
ギド: 怪我と言うのは、大したしたことはありません。
司会: でも乗って、ぐるって場内を回った時はどうでしたか?
ギド: やっぱり多くの観客の方が、いらっしゃった事が非常に嬉しかったです。
ただ、馬から降りた時はほっとしました。本当に忘れられない事なんですけれど。
司会: ギドが日本に初めて来た時、94年ワールドカップが終わってすぐだったと思うんですよ。
その時、忘れもしない、ナビスコカップの鹿島アントラーズ戦がデビュー戦だったと思うのですが、本物が来た!とすごく思ったんですよ。私は。
当時、本物のサッカー選手が来たと思って、感動した方、正直に手を上げて下さい。
観客: (観客、たくさんの人が手を上げる)
司会: 第1戦が、鹿島アントラーズ戦だったんですけれど。
その時の事、勿論覚えていらっしゃると思うのですが?
ギド: 確かにおっしゃる通り、94年ワールドカップ準々決勝で敗れて日本に来たのですけれども、非常に残念だなと言う事と、それから当時、暑かったんですよね。アメリカは。
気温45度くらいの中で試合をしていたんで、取り合えず涼しい所で試合をしたいということで、日本に来たんですけれど、日本も暑かったです。
みなさんに暖かい歓迎を受けまして、第1戦、鹿島アントラーズ戦ですけれども、当時、確かチャンピオンだった鹿島に勝ったということで非常に嬉しかったです。
司会: 本当に蒸し暑い中でしたよね。
正直言って自分がイメージしていた日本と違っていたと言うことが、いくつかあると思うのですが?
ギド: 3週間前に最初に日本に来ていまして、そこで家を探したりしました。日本に関しての情報などは、事前に集めていたんですけれども、実際に来てみて非常に良い環境であると思いました。
勿論、問題もありましたけれども、それはレッズのサポートの方が助けてくれましたので問題なく済みました。
司会: 94年から97年までレッズにいたんですけれども、いろいろ思い出すシーンやゲームがあると思うのですが、一番忘れられない事を一つ上げるとしたらどれですか?
ギド: 一番というとなかなか難しいんですけれど、本当に一番と言うと先程ありました鹿島アントラーズの試合ですね。次には駒場での試合なんですけれども、ガンバ大阪戦で私が怪我をしていた時の試合で途中交代で出た試合です。それからレッズではないのですが、JOMOカップですね。この試合も思い出します。
司会: ボリ、ギド、田口さん、恐い3バックだったと思う。ご自身は、どう思ってらっしゃるんですか?
ギド: 自分が対戦相手だったら、この3人を見たらバックパスしかしたくないと思う。
司会: とにかく恐い3人組だったんですけれどね。ただねギドが去った後、レッズは悲しかったです。
以後は失点シーンありました。「ギドがいれば」とサポーターは思ってました。
口にも出したくないんですが、J2に落ちたのはご存知ですか?
ギド: 私も当時、日本の友人からその話を聞いて非常に悲しく思いました。
ですが、レッズはすぐJ1に上がってくると信じていました。
司会: 確信をしていただいていたみたいなんですけれども。
レッズに入って5年間、ギドは体力的な限界で退団と聞いていました。
ところが、すぐにカールスルーエに選手として行ってしまいました。
まだ出来るじゃないの!ちょっと、そりゃ話が違うじゃないの!
ギド: 確かに体力の限界というのは嘘です。私は32歳という若い年代でした。
体力の限界ではなくて、いろいろな他方の問題がありまして、退団という形をとりました。
ここでカールスルーエにお話をいただきまして、最初はやっぱり私は引越をしたくなかったので、「嫌だ」と断ったのですが、90年のワールドカップで優勝したメンバーだったので「いっしょにやろうよ」と言われて、一緒にやることにしました。
半年間のプレーで契約し最終的には一年半プレーしまして、最後の二年間はマネージャーをしました。
司会: その間レッズは、悲しかったですけれどね。ちょっとね、根に持ってるんですけれどね。
それで引退してから、いろいろ経験されて、今回レッズのアドバイザーという形になったんですけれども、具体的にはレッズでどういう仕事をしていこうと思われているのでしょうか?
ギド: 役割としましては、まずヨーロッパの拠点となると言うことを考えていただければ良いと思います。
新しい外国人選手の移籍に関してチームの方から要請がありましたら、速やかに探すということです。常にチームというものは上位を目指しているものですので、そういうことは必要なことだと思います。
次に、若い選手をヨーロッパで経験させるという事があります。永井選手のようにヨーロッパで経験させるということです。それからもう一つは、指導者ですね。そういうことも今考えていることです。ヨーロッパのクラブは、Jリーグのクラブより、古く歴史もありますので、指導方法など一体となって考えていけるのではないかと思っています。
いずれにしましても私が一番うれしいのは、レッズとまた一緒に仕事が出来る、皆様とまたお会い出来るということが一番うれしいです。
司会: 詳しいお話は、マッチデープログラムに載っていますので、ご覧いただければと思います。
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